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経済学の流れ
目次
- 三大経済学
- 重商主義と重農主義
- 経済学派
- 経済学の最新トピック
- 経済学人物
三大経済学
目次
アダム・スミス
生涯
| 年代 | 出来事 |
| 1723 | スコットランド東部のカーコーディで生まれる(洗礼6月5日。一人息子) |
| 1732 | カーコーディの町立学校に入る。 |
| 1737 | グラスゴー大学に入学(14歳)道徳哲学教授フランシス・ハチソンの影響を受ける |
| 1740 | オクスフォード大学ベリオールカレッジの奨学生に選ばれ、オクスフォードへ向かう。 |
| 1746 | カーコーディに戻り母と暮らす |
| 1748 | エディンバラで公開講義を行う |
| 1751 | グラスゴー大学論理学教授、52年同大学道徳哲学教授。以後13年間グラスゴーに留まる。 |
| 1759 | 『道徳感情論』刊行。フランスやドイツでも名声を高める。 |
| 1763~64 | タウンゼント卿の義理の息子の家庭教師を務めることになる。グラスゴー大学に辞任を伝える。ヨーロッパ旅行に随行。フランスのトゥールーズに1年半留まる。 |
| 1765~66 | パリに10か月滞在。重農主義者ケネーと出会う。 |
| 1766 | ロンドンに帰着(6か月滞在) |
| 1767 | カーコーディに戻り『富国論』の執筆にとりかかる |
| 1776 | 『富国論』刊行 |
| 1787 | グラスゴー大学名誉総長。 |
| 1790 | 7月17日死去(67歳)。エディンバラのキャンノゲイト教会の墓地に埋葬。 |
考え方・理論
『富国論』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations):イギリス議会図書館のウェブサイトで原文全文を読むことができる。文字通り、「国家の富を増やすにはどうするべきか」を論じている。
- 経済活動に対して国家が様々に規制することには根拠がなくむしろ逆効果だという。
- 規制を廃止して自由な物質交換や貿易を行えば、誰もがよい結果を手に入れるという。
- アダムスミス「経済活動を自由にさせて置けば、人間は”利己的な心”によって富を築き、そこに”見えざる手”が働いて社会の調和が生み出される」(Invisible Hand)
- 「分業」と「資本の蓄積」が生産力の向上をもたらす→生産工程をいくつもの小さな作業に分割してそれぞれを専門的な熟練者が受け持つことで高い生産効率が生まれる。それによって企業は利潤を増やし、資本を蓄積し、その余剰分を投資してより効率的な機械化を実現できる。
- 資本を蓄積しそれをうまく管理し、かつ保護する国家こそが繫栄する。これは自由貿易と競争によってのみ自動的に達成される。
- 政府の経済活動への関与は限られるべきだ
- 国の防衛力を維持
- 社会秩序を保つ
- インフラストラクチャーを構築
- 教育を奨励する
- 彼の思想を実現した経済システムが「資本主義」
- イギリスの啓蒙思想(18世紀)と重なり、キリスト教会の宗教的権威主義や旧弊が批判され、合理的、批判精神に基づく多様な考え方が噴出した時代(アイザック・ニュートン:物理的自然観)
- フランシス・ケネーとの出会いで「レッセフェール(なすがままにまかせよ)」という自由放任主義を知る。「Laissez faire et laissez passer,le monde vade lui même!(なすがままに任せよ、さすれば世界は勝手に回る!)」
メモ
| 言葉 | 意味 |
| GNP(国民総生産) | 生産物やサービスの流れそのものを指す。 |
| GDP(国内総生産) | 20世紀後半にGNPの名称が変わったもの。 |
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カール・マルクス
生涯
| 年代 | 出来事 |
| 1818 | ドイツ西部(プロイセン<プロシア>)王国ロワーライン州)トリーアで8人兄弟の2番目として生まれる。エンゲルスは1820年裕福な工場経営者の家に生まれる |
| 1830 | トリーアのギムナジウム(中等教育校)に入る(幼少期は過程で教育を受けた) |
| 1835 | ボン大学で法学を学ぶ(17歳) |
| 1836 | ベルリン大学に転入。青年ヘーゲル派(熱狂的なヘーゲル哲学グループ)に参加 |
| 1837 | ベルリン郊外シュトラローでヘーゲル哲学に熱中 |
| 1841 | ベルリン大学卒業。イエナ大学に論文提出、哲学博士号取得。 |
| 1842 | ライン州ケルンの「ライン新聞」編集長。エンゲルスと出会う。 |
| 1843 | イェニイと結婚、パリに移住。44年長女イェニイ(母親と同名)誕生。 |
| 1845 | ブリュッセルで共産主義グループの全ヨーロッパネットワーク「共産主義者同盟」に参加。プロシア国籍離脱。 |
| 1848 | 自由民主主義革命後ケルンに戻り「新ライン新聞」発行。『共産党宣言』執筆発表。 |
| 1849 | ロンドンにうつり、同地で以降の人生を過ごす。 |
| 1867 | 『資本論』第1巻刊行。 |
| 1883 | 3月14日64歳で死去。ロンドンのハイゲイト墓地に埋葬(長女イェニイは同年1月、妻イェニイは81年死去) |
| 1885 | エンゲルスが『資本論』第2巻、第3巻(94年)を編集刊行。エンゲルスは1895年死去(74歳)。 |
考え方・理論
- ソヴィエト連邦のレーニンやスターリン、中国の毛沢東に国民を支配するツールとして用いられた思想。マルクス主義が前進したのは20世紀初め第一次世界大戦の終結後(300年に亘ったロシアのロマノフ王朝(帝政ロシア)を暴力革命によって倒し、これにとってかわったのがレーニンをはじめとする共産主義者たちが作ったソヴィエト連邦)
- カール・マルクスはユダヤ人の両親から生まれた。両親は共にユダヤ教のラビの家系、法律の大学だったが詩作や哲学に熱中した。(特に哲学ヘーゲル流のドイツ観念論)
- プロレタリアート(Proletariat):「賃金労働者階級」「無産階級」
- ブルジョアジー(bourgeoisie):資本家・企業家などの富裕階級
- プロレタリアートこそが救世主。マルクスの結論は「人間にとって最高の存在は人間自身である」「何者も人間の上に立つことはできない」→彼は神の存在を否定して宗教を批判し、無神論者となっていた。労働者階級は救世主としての役割を持ち、全人類を開放する存在でもあると言った。
- 『資本論』(Das Kapital)
- ダーヴィン進化論からヒントを得た(社会は進化する。古典派経済学のリカードや空想的社会主義のサンシモン、ドイツ観念論哲学のフォイエルバッハなどの影響もある。「種の起源(1859年)」ここから「歴史上のある時点の社会構造は生物のある時点の姿に置き換えられる」)つまり、経済を絶えず進化する動的なものととらえた。エンゲルスなどの友人にこの本を読んだ後「ダーウィンの本は歴史的な階級闘争の自然科学的な基礎になる」と興奮気味に描いた。
- マルクス主義の根柢の世界観は「唯物論」、すなわち「精神葛生の根源は運動する物質にある」とするもので、この見方は「弁証法的唯物論」とか「唯物史観」と呼ばれ、ドイツ語や英語の「歴史的物質主義」をうまく日本語化したもので、すなわち「唯心論」の対極にある。
- マルクスの言葉「人間存在を決定するものは人間の意識ではない。人間存在がその意識を決定するのである」「君がどのように物を生産しているかを言ってみよ。さあすれば君が何者か当てて見せよう」
- マルクスは自分の唯物史観を人間の歴史に当てはめて「私は歴史の客観法則を発見した」と宣言し、「歴史の駆動力は物的生産諸力と生産諸関係の対立だ」と言った。
- ある社会発展段階に達すると、生産諸力と生産諸関係の均衡が崩れて、両者が衝突するようになり、社会経済の障害になってくる。つまり資本主義的構造が行き詰まり、必然的に革命が起こる。革命によって生産諸力を資本家・企業家の手から広く開放すれば、より適切な社会が生まれる。資本主義が危機に陥ればそのあとに経済的破局が訪れるだろう。これを避ける唯一の脱出路は社会主義革命を起こすこととした。(持論でいうと、ここで社会主義革命を唯一のツールとするのは間違いと思う。)
- マルクス理論では階級(クラス)の概念が必須で、生産手段を所有する人々の階級と所有しない人々の階級がある。歴史的に正しい階級である「労働者階級(プロレタリアート)」と「正しい階級意識を持つ者の階級」は人の生死を決定することもできるという。つまり、人間の歴史を駆動する力は階級と階級の対立、すなわち「階級闘争」だという。
- プロレタリアートはは地上に無階級社会と言う楽園をもたらす宿命にあるとしている。
- 古い社会には進歩的な階級(社会主義的勢力、左派)と保守的な勢力(進歩に対抗する反動勢力、右派)が存在し、それらが対立するようなる。
- ひとたびマルクス理論を信じた物は他のいかなる信念や経済学や社会思想に対しても寛容ではなくなり、彼らは必ず、〇k数自身が名付けたところのプロレタリア独裁を実現しなくてはならないと信じる。それがマルクス主義の中核思想であるからだ。
- マルクス経済学は完全失敗であることが、途方もない人命の犠牲や人々の苦難とともに実証されたことは誰の目にも明らかだった。
背景
- フランス革命、戦乱、新しい支配者ナポレオンが登場した時代にマルクスは青年期であった。(ナポレオンはプロシア、イギリス、ロシアの同盟によって敗北)その間にヨーロッパでは「自由主義的」「民主主義的」な勢力が台頭した。
- ソ連とその周辺の社会主義国1980年代中頃から一気に色褪せ始めた。→ベルリンの壁崩壊→社会主義国家の崩壊の連鎖(中国やキューバは今も社会主義国家と称しているが実状的には全体主義)
- ソ連のスターリンは1920年代に数百万人のクラーク(富裕な農民)を殺害した。彼らは労働者を雇って働かせていた所有者階級だったからだ。
- 中国毛沢東は1966年に文化大革命を明示、労働者階級から権力を奪おうともくろんでいる資本家の残滓を一掃せよと布告した。これはその前に実行した「大躍進」の失敗で数千万人が餓死した事実を糊塗しようとして号令したものとされている。
- カンボジアでは1980年代、ポル・ポトに率いられたクメール・ルージュ(赤いクメール)が原始共産主義を旗印にした内戦で200万~300万人の自国民を殺害したとみられている。
- 20世紀、マルクス思想はこうして世界人口のほぼ半分を飲み込んだ。かつてこれほどのスケールで人間が一つの政治体制、一つの信念や信仰や思想の元で生きかつ死んでいったことはない。これは疑問の余地なく人類史的な大事件で、東ドイツが崩壊して西ドイツと再統一されたときの事例はもっとも典型的であった。
メモ
| 言葉 | 意味 |
| 産業革命 | 18世紀に蒸気機関が実用化され、織物工業が機械化されると、精力的に広がった。 |
| マルクス主義 | 資本を社会の共有財産に変えて階級のない共同社会を目指す考え方。 |
| 社会主義 | すべての経済資源は選挙で選ばれた政府により全国民に分配される。 |
| 共産主義 | ほぼすべての資産や経済資源は国家の所有と管理のもとにおかれ、労働者階級などの社会階級は完全に破壊される。 |
| 生産諸力 | 道具や機械、科学技術などの生産手段 |
| 生産諸関係 | 生産諸力が用いられる社会構造、誰がそれを所有し、誰がそれらを用いて生産するかを意味する。 |
解釈
マルクスの見方は、主に物資や資本を求めて行われる人々の階級争いや利権争いが資本主義のような「地上の王」の真似事を成り立たせるわけがないということに気づいた点で有益であるが、その崩壊の方法が戦争である点において人類に進歩をもたらさなかった。
このことは目には目と言っても過言ではない革命の方法であったが、当時の情勢からは柔和な解決が不可能なほどの罪をはらんでいた可能性も否めない。この点で、マルクスの失敗は神による罰であったという見方も忘れてはならない。そのうえで、人類が本当の意味で進歩する見方を示す必要があると考えられる。
すなわち、所有者階級がどのように崩壊すべきか、その崩壊の過程が予定調和と一致するように運ばれるにはどのようにするべきかを考慮できる流通の手段が必要なのである。また、経済に関して分析の目を持つということがすでに動かしてはならないものを動かしうるという点でその罪の一途を背負うという点を熟知する必要があり、これはギャンブルのように資産が動くはずのない事象の内に資産が動くような方法であるということを忘れてはならない。これがインドネシアの神話に見るような(あるお祖母さんが魚がアッラーに頼んで危機を脱したのを見てお金をアッラーに頼み、金を得た話)であればよいのである。(しかし、このような場合にもその得た金の使い道を問われるだろう)
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ジョン・メイナード・ケインズ
生涯
| 年代 | 出来事 |
| 1883 | ケンブリッジにて、経済学者の父ネヴィルの長男として生まれる。裕福な家庭で育つ。幼少期は病気がち。 |
| !1883 | マルクス死去 |
| 1897 | イートンカレッジ入学 |
| 1902 | ケンブリッジ大学キングスカレッジに入学。アルフレッド・マーシャルに師事。同大学哲学・倫理大学教授G・E・ムーアの影響を受ける。 |
| 1904 | 日露戦争で日本勝利 |
| 1905 | ケンブリッジ大学卒業後、06年インド省に勤務 |
| 1910頃 | 芸術家や作家などの「ブルームズベリー・グループ」と交流 |
| 1912 | 王立学会誌「エコノミック・ジャーナル」編集長 |
| 1913 | 最初の著書「インドの通貨と金融」刊行 |
| !1914 | 第一次世界大戦(~18年) |
| 1915 | 大蔵省に入省(~19年) |
| !1917 | ロシア革命(ソヴィエト政府誕生) |
| 1919 | 大蔵省の代表としてヴェルサイユ会議(パリ講和会議)に出席。ドイツに対する法外な賠償額を批判し、会議の途中で辞任。『平和の経済的帰結』発表 |
| 1919~1921 | ケンブリッジ大学で教鞭をとる |
| 1920頃 | 複数の投機的事業に着手 |
| 1921 | リディア・ロポコワと出会う。 |
| !1921 | 中国共産党誕生 |
| 1923 | 『貨幣改革論』発表 |
| !1929 | 世界恐慌 |
| 1930 | 『貨幣論』全2巻刊行 |
| !1933 | ヒトラー、ドイツ首相就任 |
| 1936 | 『一般理論』刊行 |
| !1937 | 日中戦争 |
| !1939 | 第二次世界大戦(~45年) |
| 1940 | 『戦費調達論』発表 |
| 1941 | イングランド銀行理事 |
| 1944 | ブレトンウッズ会議に出席しIMF設立に尽力。世界銀行の初代副総裁に就任 |
| !1945 | 国際連合発足。IMF(国際通貨基金)、国際復興開発銀行設立。 |
| 1946 | サセックスにて62歳で死去 |
考え方・理論
- ケインズはダーウィン進化論から派生した優生学の信奉者であったため優生学者の論理的帰結として、際立った人種差別主義者だった。つまり「遺伝的に優れた者の子はすぐれており、遺伝的に劣った者の子は劣っている
- ケインズの言葉(人口論で有名なトーマス・マルサスを称賛したあとで)「世界人口を適切に維持するには自然界の秩序に頼ることはできない」「世界人口を(人工的に)縮小することができれば、世界はより幸福になるであろう」「東側世界のインド、エジプト、中国の人口は極めて過剰であり、白人は人種闘争のただなかにいる。政府は帝国主義的な過激な手段を用いてでも多産系の東側から白人を守るべきである」「世界人口が多すぎる問題は有色人種を減らすことによって解決できる」「女性は男性より劣った性である」
- ケインズ経済学は古典派経済学と異なった全く新しい経済の見方だった。
- 一国の経済をトータルな視点で扱うマクロ経済学。
- ケインズは「不況を抑えこんで失業率を引き下げるには、大規模な政府支出によって総需要を増やせばよい」と言った。ケインズの経済学は資本主義社会でしばしば起こる「大不況」を分析し、その対処策を導くことにあった。
- ケインズの分析は主に大衆、社会を構成する大多数の人々の金の使い方に焦点を当てることである。(大衆がその余剰分を消費に回すかそれとも預貯金に回すかで社会経済に大きな影響が生じると分析し、そこから国家経済における政府の役割が極めて重要だとする結論)
- 世界恐慌は人々が消費を限界まで切り詰めて経済全体が縮小し、世界中に失業者があふれるようになった理由やプロセスを恐慌と同時進行で考察した。
- 著書(1936年)『雇用・利子および貨幣の一般理論』(原題:The General Theory of Employment,Interest and Money)。略『一般理論』
- 世界恐慌(ブラック・サーズデー)のときケインズは『一般理論』の中で、近代経済学の歴史上はじめて「レッセフェール」を過去のものとして切り捨て、自らの考えこそが、既存の経済形態が根柢から崩壊することを防ぎえる唯一の現実的手段であると宣言した。→これは資本主義を社会主義やファシズム、共産主義から救うことができるという意味であった。
- 『一般理論』の刊行からわずか10年ほどのうちに、近代的な経済活動を理解しかつ管理する枠組みとして、ほぼ全世界で受け入れられてしまった。(ロシア革命後のソヴィエトとその周辺諸国を除いて)ケインズのメッセージはパニックのさなかの若い世代の心を強く共鳴させた。
- レッセフェール的な経済原理は、「完全雇用」という仮想的条件が満たされている場合にのみ正しいと言った。
- 不況が起こる理由は「総需要」が不適切。また、「セイの法則」に対して、貨幣が生産物の価値を決める社会ではセイの法則は通用しないと言った。
- 経済が好調の時には大衆はユーフォーリア的につまり、精神疾患的な多幸症のように振る舞い(客観性を失って舞い上がり)空虚で無内容な爽快感を抱くようになると述べた。また、何に対しても楽観的で何事も苦にしないので人格が低下するとも述べた。こうした精神状態に陥った大衆は平気でリスクを冒す心理(彼の言葉では「アニマルスピリッツ」)の持主になると言った。また、このような大衆は不況に襲われると今度は一転してパニックを起こし絶望する。人々は不安や恐怖で消費しなくなり、多くの自殺者がでて不況は泥沼化し、もはや自律的回復は望めなくなる。
- ケインズの分析では世界恐慌は賃金と貯蓄、消費、流動性選好、投資が一つの均衡点に達していたと分析した。(ヨーロッパと北アメリカの失業率は20~25%)
- ケインズの投資は物の生産やサービスの提供のために必要な投資を広く含むもの。
- ケインズは「一般理論」の第二章「古典派経済学の公準」で「古典派経済学者たちは『供給はそれ自体の需要を作りだす』と教えて来た・・・これは、生産費のすべてを製品購入のために支出しなくてはならないことを意味する」(つまり、貯蓄は他の誰かが駆り出して消費に回しているとみている。)
- ケインズは失業問題は「総需要の管理」で解消できると考えた。また、労働者は常に自らの実質的な購買力よりも名目賃金の方を気にする「マネー幻想」に陥っているという。こうした心理のために名目賃金が下がると人々は支出をしなくなる。
- 第18章一般理論再説で政府による経済の持続的管理の必要性を説いている。この考えはマネタリストを除けば現在の大半の経済学者に受け継がれている
ケインズ思想の特徴
- 社会経済を大きな目で(マクロ的に)見る。つまり経済学のミクロ的な観念である消費、貯蓄、所得、支出、雇用の全体(総量)をもとに経済を評価する
- 所得と支出、それに雇用の総量を決める基準は「有効需要」である
- 経済は本質的に不安定で、好況と不況が繰り返される。これが起こるのは企業の投資が気まぐれに行われるため
- 賃金と価格は構造的に下がりにくい性質を持っている。これらが下がるデフレ現象が生じるのは大不況においてのみである。
- こうした理由から、雇用を増やし、価格を安定させ、経済成長を持続させるために、政府は経済的に積極的に介入すべきだ。とりわけ不況時には財政支出を増やし、減税を実行し、個人消費を増やすように仕向けねばならない。さらにマネーサプライ(通貨供給)を増やし、金利を下げることによって投資を促進すべきである。インフレ時にはこれと逆の対策が必要になる。
背景
- ケインズは高名な小説家、歴史学者H・G・ウェルズ(SF小説「タイムマシン」「透明人間」)と親密だった。
- ケインズとウェルズは「イギリス優生学協会」の幹部会員であった。
- 1870年代以降ほぼ20年おきに3度の不況が起きた。古典派経済学は「われわれは最悪の状況が通り過ぎるまで耐え忍び、自由市場の力学がおのれを修正して羽根意を取り戻すに任せるべきだ」と言うことであった。
- ケインズの手法はヒトラーのドイツナチス政権によって実行された。ドイツ帝国銀行総裁ヤルマール・シャハトに会ってアドバイスした。1934年から開戦までの数年間、ドイツは完全雇用を達成した。しかしこれも戦争のために起こったことであり、ケインズ理論との関係は不確かなままだ。
- 世界恐慌が終息した理由がケインズによるかどうかには多くの経済学者が否定的。
- 最終章では「多少とも包括的な社会主義的投資が、完全雇用に近い状態を確保する唯一の手段であることが明らかになるだろう」
メモ
| 言葉 | 意味 |
| 優生保護法 | 日本で1996年まで劣勢の遺伝子を持つとされる者の断種が行われていた。ヨーロッパやアメリカでは広く行われていた。1996年以降、関連法として「母体保護法」となった。 |
| ナチスのアーリア人種思想 | 純粋なゲルマン民族などのアーリア人増殖のための専用施設まで建設された。中国やインドでもこれと類似した見方を定めた法律ないし制度が現在も存在する。 |
| コーケシアン優越主義 | |
| 精子銀行 | |
| デザイナーベイビー | |
| ブラック・サーズデー | 1929年のニューヨーク株式市場の大暴落。ここから始まって世界恐慌となった。(全世界での失業者は3000万~5000万人、世界貿易は70%以上激減した)ケインズ40代半ばのとき |
| 総需要 | ある国のGDP(国内総生産)に対する需要 |
| ルンペン・プロレタリアート | マルクスのドイツ語表現で資本主義社の最低辺に沈殿する浮浪的な貧民層 |
| マネー幻想 | 通貨の価値が下がってもさして気にしないにもかかわらず、自分の賃金(名目賃金)が下がることをひどく嫌う矛盾した労働者心理のこと。 |
| ニューディール政策 | 国中にあふれる余剰労働力の一部を政府が雇用し、大規模な公共事業を実行するもの。テネシー川流域開発(TVA)。フランクリン・ルーズベルトはケインズの不況脱出の手法によって実行した。(1934年にケインズに会っている)そして第二次世界大戦に突入し、アメリカは国中の生産力おt何百万院もの労働者を動員して、兵器生産などの戦争準備を始めねばならなくなった。戦争が巨大スケールの公共投資と前例のない大きな政府を強要し、アメリカは恐慌から一転して完全雇用を実現した。戦後の復興においてもおなじ状況は繰り返され、アメリカ経済は不況とは無縁となった。このため、ニューディール政策がどれほどの効果を示したかを確かめることはできなかった。 |
| 有効需要 | 企業の生産活動から生じる所得が支出されることによって生み出される需要。ケインズ経済学の中心概念 |
| 下方硬直性 | ケインズ用語。賃金と価格は構造的に下がりにくい性質を持っているということ |
| 消費の限界性向 | |
| 資本の限界効率 | |
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感想
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重商主義と重農主義
経済学の始まりとしては、イギリスの重商主義と、フランスの重農主義
重商主義
この言葉は特定の経済理論ではなく、商業を重視する見方のことである。英語の「マーカンタイリズム(Mercantilism)」の訳語。この言葉はアダムスミスが富国論で初めて用いたもの。(商人を見下していた当時のイギリスの貴族階級や地主階級はこの言葉を軽蔑を込めて使っていた。)
重商主義には16~18世紀のヨーロッパ諸国における重商主義には、絶対権力者が生産活動や貿易を思うがままに統制していたという意味合いがついて回る。
18世紀後半になると、ドイツの経済学者や歴史学者たちが重商主義をもっと前向きにとらえるようになった。ドイツ人は「優れた指導者による国家建設のための思想」と受け止め、なかには、重商主義は単なる国家建設の思想ではなく、経済建設の方法論も含まれるとみるものもいた。特にフリードリッヒ大王の統治するプロシアの元で「統一されたドイツ国家の建設」を志向した影響が強い。
西ヨーロッパでは16世紀ごろ(日本の戦国時代)から都市成長が社会経済システムを変質させ始めた。「古い封建社会」が後退し、商業資本主義というような新しい社会経済システムが現れた。これは航海術の発展に支えられて商売を「海外交易」にまで拡大し、利益が急上昇した結果でもあった。商取引や貿易が急成長すると、そこでは同時に「通貨の役割」も急拡大し、貨幣を鋳造するための金銀の需要が生じた。世界各地で金や銀などの貴重な鉱物が発見されると、ヨーロッパ諸国はそれらを手に入れるため地球上の至るところに大型外洋船を送り付けた。大航海と植民地獲得競争の時代に突入した。
この時代、外国貿易を行った商人たちは上流階級の目には「目端の利く商人」に過ぎなかった。しかし彼らはいつの間にか現代に通じる「資本の蓄積」を実現し社会経済の主役となって行った。『商人が富を蓄積すれば国家の富も成長する』これは国家の概念を鮮明にさせた。そして、国同士が経済力と軍事力によって対峙し、しばしば戦争を引き起こすことにもなった。
重商主義の7つの特徴
- 金銀の保有を増やす
- 他国より強い軍事力を持つ
- 輸入を増やし輸出を減らす
- 植民地を増やし貿易を独占する
- 商品は政府の管理下に置く
- 政府が強い監督権を持つ
- 勤勉で大きな人口を確保する
重商主義はあからさまな国家主義の思想であり、優れた支配者が賢明な方法で社会を管理すべきであるという社会思想を読み取ることができる。
経済学的には「政府の干渉による金銀の蓄積」が中心教義と見受けられる。
重農主義
背景
- 国王ルイ15世がフランスを支配し、ベルサイユ宮殿でポンパドール夫人を愛妾としていた18世紀半ば、フランスの経済は荒廃しきっていた。前王ルイ14世の時代にイギリスとの植民地戦争に敗れたフランス経済が疲弊し、さらには財務総督コルベールが古い重商主義政策でフランスを困窮化した。
- 当時の職人たちは同業者組織(ギルド)に加入させられて、競争を禁じられ、(例えば織物工が衣服を作るときは『幅1インチ当たり何針縫うべき』などの規則を強要された)、さらに道路通行料、税金、関税などを取り立てられた。
- 農民も同様に、自分の土地も生産ブウもすべて課税され、税額は領主や徴税人が勝手にあげることができた。
- 他方では、貴族や聖職者は税金をすべて免除され、農民の畑に入り込んで狩猟遊びをするなどの勝手放題が認められた。貴族の鶉(うずら)猟の季節には農民が自分の畑の雑草を取ることを禁止する法律さえあった。
フランソワ・ケネー
フランソワ・ケネーはベルサイユ宮殿にポンパドール夫人の主治医に取り立てられて呼ばれた医師。医師としての能力を認められ、ルイ15世の主治医となった。
彼が宮殿の中2階に与えられた部屋にはしばし優れた学者たちが集まって来た。その中にはヴァンサン・ド・グルネという経済学者がいた。ケネーはこの経済学者によって経済学に興味を持ち、まもなく医学よりも経済学に関心を向けるようになった。
ケネーは社会経済を主物体に見立て、経済における富や商品や貨幣の流れは生物の体内を流れる血液と同じで、経済も自然法則として理解されなくてはならないとした。ケネーと同調者たちは後に重農主義者と呼ばれるようになった。
彼らの引き出した結論は、「国家の富を生み出す源は農業のみである」というものだった。あらゆる産業の中で農業のみが投入したコストを上回る成果(純生産物=剰余)を生み出すことができる。
経済表(タブロー・エコノミク:TABLEAU ŒCONOMIQUE)
ケネーはルイ15世のために「経済表(タブロー・エコノミク)[TABLEAU ŒCONOMIQUE]」を作り、資本を自由に循環させる社会システムを描いて見せた。(1758年)
彼はさらに、自由な市場で商品と貨幣が理想的に循環することを示した経済表の改訂版まで作った。これは「マクロ経済」の視点で経済を分析する世界初の試みだった。(アダム・スミスもマルクスもケインズもケネーの経済表に学んで自らの経済学を打ち立てた。)
重農主義の思想(ケネーからアダムスミスへ)
この重農主義の思想は1774年に時の財務総督テュルゴーによって実行に移された。
彼は「穀物取引を自由化」「ギルドを廃止」「公共工事に農民をただで駆り出すことを禁止」、人民の平等のために「職業選択や教育や宗教の自由を保障」「中央銀行を設置」「貴族に課税」した。
しかし、彼は貴族や裁判官や聖職者などの特権階級の激しい反撃に遭った。とりわけ「王妃マリーアントワネット」に直訴された「国王ルイ16世」は、改革者テュルゴーを解任した。そして、ケネーがこの問題に取り組んでいた時期に、アダムスミスがヴェルサイユを訪れ、ケネーらと会い重農主義を知り感銘を受けた。
ちなみにマリーアントワネットはフランス革命後、敵国への内通などの罪が問われ、処刑場に引き渡された。
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経済学派
目次
古典派経済学
「古典派経済学(クラシカル・エコノミクス)」は18世紀後半~19世紀初頭に生まれ、ほぼすべての経済理論へ派生した。この学派に含まれる経済学者の大半がイギリス生まれだった。(例外的にフランス生まれもいる)背景としては古典派経済学者たちの研究対象は主に工業化した資本主義社会という理由がある。このような社会を世界で最初に実現した国がイギリス(グレートブリンテン)
時代の流れ
イギリスでは18世紀後半に「産業革命(工業革命)」が始まった。そこで蒸気機関が使用されたが、他のヨーロッパ諸国、つまりベルギーやフランスではこうした新技術を用いた工業化に着手したのはずっと後の19世紀になってからで、ドイツはさらに遅れた。何百人の女性や子供が毎日長時間、手作業で働いていた織物工場が、蒸気機関の動力によりごく少数の人々の手で稼働する時代がやって来た。こうした機械化や自動化はあらゆる産業へと拡がり、伝統的産業は激変して消滅し、そのために無数の労働者が失業した。19世紀のはじめには「自動機械の打ちこわし運動(ラッタイト)」が起こるほどの社会大変動となった。このような流れの中でイギリス社会には新たな階級と集団が現れた。それは産業を変質刺せた「資本家・起業家の階級」と仕事を失った労働者の集団「搾取される労働者階級」だった。労働者はマルクスにプロレタリアートと呼ばれたがそれ以前には近代奴隷と英訳されたこともあった。
イギリスでは人口の大半が「自由農民」で自分の土地を耕してそこそこ平穏に暮らしていた。資本家も企業家も労働者も存在せず、社会の上層をなしていたのは貴族階級と僧侶だけであった。ところが16世紀、18世紀に耕作地の「囲い込み」という現象が起こった。地主が農民から細切れ的な耕作地を奪い取ってまとめ、広い農業地帯に変えたのだった。初期の囲い込みでは土地を羊の放牧場に変え、羊毛を織物業者に売るという商売を始めた。後の囲い込みでは、追い立てた農民を低賃金労働者として雇うようになった。これによって農業の生産性は高まったが、同時に新たに低賃金の困窮労働者と浮浪者の大群が出現した。
しかしこの変化を同時代の知識人性質はむしろ歓迎した。彼らの残した言葉には次のようなものがある。「貧しい農民を他人のために働かざるを得ない集団にに変えることでより多くの労働力が生まれるなら、、それは国にとって望ましいことだ」「働き手の男たちは住居を追われ、職を求めて待ちに出ざるを得ない。だがそれによって大きな余剰が生み出され、社会資本が蓄積される」。当時の経済学者は「貧しい大多数」をひとくくりにして、単に賃金や労働価値(経済的価値を生み出す手段としての労働力)、および賃金と利益の関係などの視点からのみ経済を考察した。
古典派経済学は社会経済をどう扱うべきか、その分析手法をそれ以前の重商主義や重農主義より遥かに進歩させた。当時の経済学者がこのように新しい見方に到達したのは、当時のイギリスの自然科学の影響がある。彼らの1世紀ほど前、アイザックニュートンが自然科学の世界に文字通りの革命をもたらした。ニュートンはそれまでカトリック教会が唱える世界観によって、創作されていた生命や宇宙の見方を厳密な実証主義科学へと大転換させた。経済学もニュートンと同じ手法で分析し理解すべきだと考えた。
マルサスは農業を重視して地主階級の見方をし、田舎の農業生活は都市生活より道徳的に上等だと考えていた。
セイとリカードは農業に取り立てて共感せず、自由貿易と資本の蓄積を重視する現代資本家・企業家的な見方を展開した。マルサスよりセイやリカードの方がその後の経済学の発展に直結する分析的経済学者であった。つまり社会経済を(個人的信念を排除して)幾つかの基本原理に立って論じようした。
古典派を代表する経済学者
ジャンーバティスト・セイ
マルサスに宛てた手紙「(彼らの先達である)アダム・スミスは富の生産と消費の現象を十分に把握してはいませんでした。しかし彼のお陰で、きわめて不確かであいまいな科学としての経済学が間もなく精密な科学に、未解明な部分の非常に少ない科学になるはずです。」
- 1767~1832、フランスの経済学者
- 「セイの法則」:商品は作りさえすればすべて売れる=供給はそれ自身の需要を生み出す。一時的な供給過剰があっても長期的には生産過剰の状態は存在しない。
デヴィッド・リカード
「労働者は常に最低の賃金しか得られない」と言った。
- 1772~1823、イギリスの経済学者
- 「比較生産費の理論」:各国が「比較優位」に立つ生産物を主に輸出することで社会経済は向上する。この自由貿易は近代経済学の基本思想となった。
- 「価値の理論(労働価値論)」:商品の価値はその生産に要する労働力の量によって決まる。
- 「賃貸の理論(差額地代論)」:肥沃な土地は痩せた土地と同じ労力でより多くの作物を生産できるが、狩りて同士の競争によってそれだけ地代が上がるため、最終的には肥沃な土地で取れる余剰の作物は差額地代として地主に吸い取られる。
ジョン・スチュアート・ミル
- 1806~1873、イギリスの哲学者・経済思想家
- 「生産と分配の法則」:富は自然法則にしたがって生産され人間の意思によって分配される。分配を公正にするため労働者は組織的運動や文化的活動を通じ、また知識向上を図って自らの福祉を増進させるべきである。
アダム・スミス
- 1723~1790、スコットランド生まれのイギリスの経済学者・哲学者
- レッセフェール(自由放任主義):人々の利己的な行動は「見えざる手」に導かれて社会是延滞の利益を生み出す。また市場を放任すればそこには自然に秩序が生まれる。したがって市場に政府はなるべく介入すべきではない。
ジェレミー・ベンサム
- 1748~1832、イギリスの哲学者・経済学者
- 快楽-苦痛の原理(功利主義):制度や行為が社会的に望ましいか田舎は、その結果として生じ効用(有用性)によって決まるとする「功利主義」の創始者。その思想は「最大多数の最大幸福」とも表現された。
トーマス・マルサス
『人口論』の中で「貧しい人々は人口の罠にはまり、人口増加と(飢餓と病気による)人口減少を永遠に繰り返すであろう」と言った。
- 1766~1834
- 人口の原理:人口は幾何級数的(2,4,8,16...)に増加し、食料生産は算術級数的(1,2,3,4...)にしか増えないので人口増加が社会の貧困を作り出す。これは社会制度の改良では避けられないと主張した。
- 供給過剰の理論:資本家・労働者は自らの全生産物を買い戻す力はないため、市場は原理的に供給過剰となる。これを解消するには余剰の生産物をひたすら消費する階級(緋生産階級)が必要となる
出来事等
| 年代 | 出来事 | 説明 |
| 1777 | 蒸気機関(ジェームズワット) | 造幣局で貨幣鋳造のために1848年まで利用された。 |
| 1785 | | 紡績機械の原動力として世界で初めて蒸気機関が使用された |
| サンディカリズム | 労働組合主義と訳される。労働組合を通じて生産と消費を直結する社会を目指した。議会政治を否定し、労働者のストライキなど直接行動を奨励する急進的社会主義の一形態。ギルド社会主義はこの活動に影響を受けた一派で、産業べウニ結成した労働組合(ギルド)が生産を調節し、生産物を流通すべきと主張した。 |
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空想的社会主義
- 誰もが豊かで幸せになれる社会を実現できる方法はないかと考えた経済学派。「ユートピアン・ソーシャリズム」という英語から来ている。この思想の命名者はフリードリッヒ・エンゲルス
- 以下の三人はイギリスの産業革命やフランス革命の後に生じた経済混乱をいかに沈静化するかを考えた。
- 不公平や貧困や混乱がついて回る人間社会に疑問を抱き、理想的な社会は別の所にあると考える人々が常に存在するため、そうした人々が考え抜いて行きつく先が社会主義的世界である。実際、18~20世紀初めにかけてヨーロッパでは様々な社会主義的思想が現れたが、どれも資本主義へのアンチテーゼ
- キーワード:「サンシモニアン」「フーリエリスト」「オーウェナイト」
- ヨーロッパやアメリカや日本は他の地域の国々に比べて経済が総じて遥かに大きくかつ先進的であるが、その理由は社会主義者や共産主義者の言葉でいうなら「資本主義による”富の収奪と蓄積」が行われたからで、資本家が経済活動によって労働者を搾取し、利潤を追求する社会構造がうまく機能した結果で、近代的資本主義社会が形成された。しかしそこには恐ろしい矛盾があり、イギリスでは18世紀末から「産業革命」が始まり、昔ながらの経済(農業や手工業)が瓦解し、大きな工場がとってかわったが、失業した人々はスラムに追いやられ悲惨な生活を余儀なくされた。資本主義が成長すると、反比例して労働者階級の貧困がイギリス全土に広がった。古典派経済学者たちは「経済への政府の介入は最小限にすべし(=小さい政府)」と主張した結果だった。このような露骨な資本主義が支配すると社会主義が施行されるのは必然で、その後、さらに多様な社会主義(イギリス労働党の思想でケインズも深く関与)、サンディカリズム、ギルド社会主義などができた。これらには一つの共通の視点と方向性がある。それは「自由放任の古典派経済学は労働者を虐げるものであり、従って個人のもつ資産や経済活動は国家や公的集団によって所有され管理されるべきだとする点」
フリードリッヒ・エンゲルス
- 20ヵ国語を話した。「アラビア語など2週間で習得でき、児戯に等しい」と言った。
- 1880年にフランス語で発行した冊子の表紙に「社会主義 ユートピアから科学へ」と書いた。(邦訳『空想から科学へ』)
- ユートピアは当時生まれて間もない資本主義を批判し、反対運動を展開していた思想家たちが提唱した初期の社会主義を指していた。それは”豊穣で調和のとれた理想社会”という文字通りのユートピアで空想の産物であった。
アンリ・ド・サンシモン
- フランスの哲学者で貴族
- 市場経済は不当かつ不合理だと主張し、社会における事物の完全なる配置を実現した理想社会を考えて世間に訴えた。
- 「50人の科学者や技師、勤労者、商人、職工などが死ねば取り返しがつかないが、50人の王族や大臣や高位の僧侶がいなくなっても穴を埋められる」と公言し逮捕された。
- フランス皇帝ナポレオン3世はサンシモン信奉者だった。
- テクノクラート「生産を推し進める階級」の出現を予知した。
シャルル・フーリエ
- フランス
- フーリエ展開
- フーリエの主張「人間はそれぞれ地域に1600人ほどの”農業協同組合”を作って集団で生産や日常生活のすべてを行い、互いに自由に性愛をかわして・・・」
ロバート・オーウェン
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国家社会主義
ルイ・ブラン
- フランス人
- 主張
- 国家は人民に職業を保障する義務がある
- 産業競争は廃止すべきだ
- 国営工業の設置
- フランス2月革命後には政府の要請に就いて国営工場を作り失敗したが「各人が自らの才能に応じて生産し、必要に応じて消費する」という見方は共産主義者が共鳴するところとなった。
- ロシア革命後のソ連(ソヴィエト連邦)は全産業を国営化し、ブランの思想を実践した。国家社会主義は社会保障制度、郵便制度、アメリカでルーズベルトが実行したTVA(テネシー溪谷開発公社)などを含み、これを国家管理経済と言う。
北一輝
- 二・二六事件(1936年)の思想的黒幕として逮捕され、銃殺刑に処せられた。
無政府主義(アナーキズム)
どんな政府もその性質は強圧的となるのであり、従って政府と私有財産は完全に廃止すべきだ、とするもの。すなわち世界のどこであれ政府はつねに富裕層と知識層の側に立ち、貧困層に敵対する性質を持つ。従って社会革命のやり方は直接統治でもなく短銃統治でもなく非統治(無政府)でなくてはならないというもの。
解釈:ロシアの場合にはこの段階で政府を捨てても問題はなかったかもしれない。
プルードン
クロポトキン
バクーニン
ドイツ歴史学派
ドイツで生まれたドイツのための経済学。19世紀のドイツの社会背景から生まれた。産業や社会の発達段階は国ごとに異なるので、政府はそれに合わせた経済政策を積極的に実施すべきとした。後に国家主義的思想が加わった。
彼らは、ドイツは万民の経済学を志向するイギリスの古典派経済学の見方に追随してはならないと主張した。
ドイツ歴史学派の4つの基本理念
- 社会はダーウィンの進化論によって理解される。(経済学は社会の発展段階に適合していなくてはならない。)
- 古典派経済学は不特定個人の経済学だが、歴史学派が重視するのは個人ではなく社会である。社会が中心である以上、政府は経済に深く介入すべきである。
- 経済はその社会の歴史的な一部であるから、経済は歴史的に見なくてはならない。(経済を抽象化する古典派経済学は非歴史的で、静的かつ非現実的である。)
- 経済学は経済現象の動機を単に分析するのではなく、その倫理的重要性を天秤にかけねばならないそれは労働者の健康と生活と効率を守りつつ、国家への忠誠心を高めるものでなくてはならない
背景
- ドイツはヨーロッパ中世以来絶えず国家の分裂に苦しんでいた。とりわけナポレオン戦争が大打撃となり、ナポレオンがフランス革命の大儀を周辺諸国の干渉から守るために始めた戦争がいつの間にかいつの間にか周辺国への侵略戦争に変わっていた。
- ドイツはプロイセン(プロシア)を中核とし19世紀半ばまでには一応整理されたが、39もの小国や都市(大半が非民主的な君主国)に分かれていた。
- 周辺国はドイツの分裂状態を自国の利益のために利用しようと絶えず画策した。
- イギリス:分裂したドイツの中でもっとも強力なプロシアにドイツを統一させて、フランスのヨーロッパ大陸支配を妨げようとした。
- オーストリア:ドイツを弱体のままに保つために、分裂状態の維持を企んだ。
- ロシア:ドイツとオーストリアの手が届かないポーランド東部を手に入れようとしていた。
- 上記のような不安定な状況の中で、ドイツ国内ではフラストレーションが蓄積し、次第に統一を求める国家主義的な空気となった。
- このころイギリスは工業革命を経験していた。その結果資本主義が成長し、自由主義的な、古典派経済学が受け入れられていた。
- 当時ドイツは後進国とされ、古い重商主義がまかり通っていて、自由競争はご法度とされ、諸外国との間では保護貿易を徹底していた。
フリードリッヒ・リスト
- 1789~1846
- 古典派経済学は産業先進国のものであり、後進国ドイツには適さないと主張した。
- リストのいう産業の発展の五段階
- 第一段階:未開社会
- 第二段階:牧畜社会
- 第三段階:農業社会
- 第四段階:農工業社会
- 第五段階:農工商業社会
- 当時のドイツは工業化の初期で第四段階と考えられた。上記の段階はその国民がどの段階にあるかで、国家の果たすべき役割は異なり、すべての国家の使命は弱小の国民を強力な国民へと成長させることだという。
- 1817年チュービンゲン大学教授となる。そして、当時としては非常に急進的な社会改革案(有料道路、産業の国有化、封建領主への課税、裁判の陪審制度、役人の削減、等)を主張し政府に睨まれた。大学を解雇されただけではなく、大逆罪で10か月間投獄され、重労働を課せられ、さらにアメリカへ移住するという条件でドイツから追放された。
- 1825年から7年間アメリカで農業、新聞記者、石炭採掘などに従事して生き延びた。
- アメリカで彼の経済思想が注目されるようになり、アメリカの経済学界に「アメリカ制度学派」となる新しい経済学を生み出すほどの波及効果を及ぼすことになった。
- ドイツに戻ったリストは活動を再開し、またもドイツ全土に広がる鉄道網の建設、郵便制度や特許法の親切などを主張して回った。しかしドイツ政府は依然として彼に耳を貸そうとはしなかった。
- 1846年自らの頭部に向けてピストルを発射し、自殺した。
- リストの死後、主張し続けていた経済政策はどれもドイツ国内で実現したばかりか、国境を越えて世界に広がって行った。
グスタフ・シュモラー
- ベルリン大学
- 政府と学会に対して、強大な影響力を行使し、単なる理論的経済学ではなく、歴史的事実の上に立つ政治的手段を構築することが重要だと力説し、この方針に従わない経済学者はドイツの大学で教鞭を取ってはならないとまで宣言した。
- シュモラーの一派は「新歴史学派」と呼ばれる
- ドイツは彼の影響力でたちまち富国強兵へ突き進み、その思想はヨーロッパ全域へ、アメリカへも広がった。明治時代の日本にもシュモラーの思想は到達した。
- 1917年、シュモラー死ぬ。ドイツ歴史学派も消滅したとされる。
金井延(かないのぶる)4h>
- シュモラーの聴講生。強い影響を受けて明治政府に日露戦争開戦を迫り、開戦した。
- 強靭な主戦論者
ヴェルナー・ゾンバルト
- ベルリン大学
- シュモラーの思想と方法論を徹底的な国家主義に塗り替えた
- 当時急速に台頭してきたアドルフ・ヒトラーのナチズムを全面支持し、これこそが資本主義の腐敗に打ち勝つ新しくダイナミックな哲学だと主張した(ハイデガーもこれに加わった)
- ナチスの人種差別と極端な国家主義を賛美し、「我々が目指すものはただ一つ、ドイツである。ドイツの偉大さと力と栄光のためなら、我々はどんな理論もどんな理念も喜んで犠牲にする」(ロンドンから歴史学派の台頭を見ていたマルクスは、「まったく浅はかな連中の産物だ」と書き残した)
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アメリカ制度学派
- アメリカ制度学派の「制度」とは、文字通り、有形無形の社会制度や慣例→「社会構造:Institutions」つまり、国家、企業、通貨、財産、家族、エトセトラ
>
- アメリカ制度学派はもともと、アメリカにおけるこれらの社会制度の起源や歴史が経済に与えている影響を分析し、経済を向上させるにはそれらをどう変革すべきかまで議論した。
- 彼らは「社会構造を無視した古典派経済学を厳しく批判し、経済における制度や慣例の役割を重視する」ところから出発した。
- アメリカ制度学派は元をたどると、ドイツ歴史学派にある。なぜなら、ドイツはヒトラーの失敗に終わったが、自国の歴史や特殊性を重視するこの経済思想の具体性には説得力があり、そのために他国の経済学にも影響を及ぼした。とりわけ19世紀のアメリカの経済学者の強い共感を呼びこの学派が派生した。
- 古典派経済学が主張する”経済の均衡状態”は絶対にありえないとする。あるのは因果律によって生じる”循環的な変化”や”変化の蓄積”であり、これが硬直した社会構造を生み出し、経済社会の前進を阻害する。
- アメリカ制度学派はルーズベルト大統領が実行した「ニューディール」を後押しした。
- 20世紀半ばには「新制度学派」となった。
- 1970年以降新制度学派からは5人のノーベル経済学賞受賞者が出た。
- 主張が多岐にわたりすぎ、誰もその骨子や全体像を容易に理解できない点が弱点
ジョン・ケネス・ガルブレイズ
- 50冊の著書と、1000本の論文を書き、20世紀の世界で最も多くの人に読まれた。
- 日本では『不確実性の時代(「The Age of Uncertainty」)』の訳書だけで50万部売れた。
- 主流派(新古典派経済学、ケインズ経済学、日本の近代経済学などの学派)からはよく言われず頻繁に批判された
- ケネディ大統領、ジョンソン大統領、クリントン大統領などと親しく、駐インド大使を務め、アメリカ経済学会会長を務めた。
- ガルブレイズは経済学に数学を用いず、平易な記述で語り続けた。20世紀の経済学は多かれ少なかれ数学的ツールを常識的に利用していたが、彼はそれから完全に距離を置いていた。数学を使えば経済学が科学に近づくと信じている人びとにはまったく同調しなかった。
- 数学を使わなかったことと、実証研究を軽視しているという理由で批判された。
- 文章を書く能力に著しく秀でていて、「一流の小説家」と揶揄された。
- ガルブレイズは、過去の経済理論の多くが現実社会を反映できていないことを繰り返し指摘した。
- ガルブレイズの経済学は大本をたどると、アメリカ制度学派。
トーステン・ヴェブレン
- 貧しいノルウェー移民の子、シカゴ大学の経済学者となったが、女子学生に性的不謹慎を働き大学を追放された。また、離婚や下手な教授法が災いして、いくつもの大学を渡り歩く人生となった。結局助教授以上にはなれず、最後は昔の学生の世話になり、世界恐慌のきっかけとなった、1929年のブラックサーズデー(株価大暴落)の直前に孤独のうちに世を去った。
- 人間の生物学的本能や習性が行動を引き起こすことを見抜き、時代に先んじる様々な概念や言葉を考え出した。
- 当時の経済学の主流である新古典派を激しく批判し、それによってアメリカ制度学派を誕生に導いた。
青木昌彦(あおきまさひこ)
背景
- アメリカでは南北戦争(1861年から4年間)から第一次世界大戦までの間に資本主義の大発展があり、これによって世界最大最強の産業システムが形成された。
- 独占企業の出現
1870年代に始まった産業の寡占や独占。これによって国家の急成長と取り残された労働者という矛盾した社会構造を生み出した最大の要因となった。
- 独占禁止法の制定
| 政府による構造改革や制度管理が不可欠とする主張があらゆる階層から噴出した。人々は、少数企業による産業の独占を禁ずる法を要求した。
語彙
| 言葉 | 説明 |
| 誇示的消費 | 見せびらかしの消費。他人に裕福だとみられたいがための消費行動(ヴェブレン) |
| 有閑階級 | 暇を見せびらかしたい消費行動(ヴェブレン) |
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ローザンヌ学派
- 経済分析に数学を使うことを主張し、以後、世界の経済学者は多かれ少なかれこの手法の影響なしに経済学者を名乗ることが出来なくなった。
- ワルラスやレオンチェフの仕事は経済学の開祖アダム・スミスの抽象的な経済学に数理解析の手法を持ち込み、多少とも具体性を賦与する試みであった。
レオン・ワルラス
- フランス人、人生の前半は失敗続きだった。大学入試には2度失敗し、小説を書いても見向きもされず、銀行業を始めたがすぐに倒産した。
- 30代になって経済学区を学び始めた。ワルラスはスイス、ローザンヌ大学の初代経済学教授に登用され、ローザンヌ学派という経済学を生み出す一人となった。後には数理経済学の創始者と呼称された。
一般均衡理論
- 1870年代の著作。ワルラスの名を著しく高めた。
- 「経済における変化要因(変数)同士の間には互いに影響しあう関係が存在し、その影響は経済社会の全体に波及する。そして経済全体は最終的に一つの安定状態(均衡)に達する」つまり、我々個人の経済行動ですら、少なからず全体に影響する、そして最終的に関係のある経済同士が均衡状態に達する。(この影響が見込まれる際に売り手はそれを予測して価格を調整し利益を上げたり経済の流れを調節するが、やがてその影響が緩和され均衡点に達すると落ち着く)
- 部分均衡理論:限定的な経済社会、一部の物やサービスを見て、それ以外を定数として扱い、成立する均衡点を探るもの(アルフレッド・マーシャル、ポール・サミュエルソンなどが主張した「経済学モデル」)
一般均衡理論に対して具体的で直感的で便利なツールになるとみられた。
- 難点として、一般均衡理論で現実の経済分析を行うことは不可能に近い。ケインズも一般均衡理論を強く批判。
- ワシリー・レオンチェフ(ソ連出身、アメリカの経済学者)は20世紀初め一般均衡理論を単純化して、実態経済学の分析に利用できるようにし、ノーベル賞を受賞した(1973年)。レオンチェフは財やサービスがどのように社会を循環するのかを示す、「レオンチェフ表(産業連関表)」を作成し、経済分析の指標を目で見えるようにする手法を考えた(1936年)。
- ワルラスは自身を挙げて一般均衡理論を「純粋経済学」と命名した。
語彙
| 語彙 | 説明 |
| 石油輸出機構(OPEC) | 産油国の国際機関 |
| 1バレル | OPECが定める原油価格を決める際の単位 |
| 北米経済圏(NAFTA) | |
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新古典派経済学
- 19世紀末に登場し、現在に至るまで経済学の主流を占めて来たとされている。この学派に対しては批判や否定的な見方も絶えない。
- 古典派経済学より、現実性の高い経済学を生み出そうとして古典派経済学「クラシカル・エコノミクス」が新古典派経済学「ネオクラシカル・エコノミクス」となった。(日本には近代経済学という呼称があるが、モダン・エコノミクスと英語で表現すると欧米ではなんのことかわからない。)
- 新古典派は古典派の過料モデルのように思えるが、実際には、競合モデルまたは、対抗モデルの色合いが強い。
- 伝統的な古典派経済学の需要供給の関係は経済成長と階級間の分配を問題とし、製品の価格(価値)を決めるのはその材料のコストと人件費の合計であるが、これに対し、新古典派経済学は、需要と供給が物やサービスの生産、価格、消費を決定する原動力と考える。そこに限界効力を持ち込むことで限界革命を引き起こしたという。(古典派はマクロ経済で、新古典派はミクロ経済)
- 新古典派はニュートン力学を取り入れ微分などの数学的手法で理論を精緻化できると信じた。
- 教育の現場でも広く教えられる、現代の経済学の基礎をなす。しかし、数学的手法を多用したことで批判を招き、結果的に経済学全体への失望を招いたとも見られている。
- 新古典派経済学の3つの視点
- 第一の視点:消費者の最大の関心事は自らの満足度の最大化である(消費者は製品やサービスが自分にとってどれほどの価値があるかの評価に基づいて購入を決定する。)
- 第二の視点:物や商品には製造コストを超える価値があるので、それらの価値に対する消費者の見方が、それらの価格と需要にフィードバックされる。
- 第三の視点:市場競争は経済における資源の効率的配分を生じさせ結果的に需要と供給が市場を均衡させる。(総需要は供給によって調整され、生産コストの合理モデルは価値理論と流通によって決まる。)
- 新古典派のさらなる中心テーマは「限界主義」人間の経済行動にはある種の限界がある。
- 新古典派経済学「neoclassical economics」という呼称を最初に考えたのはトーステン・ヴェブレン。19世紀末以降、以前とは異なる新しい経済学を議論し始めた人々をひっくるめてそう呼んだ。第二次世界大戦後に現れた「シカゴ学派」「マネタリズム」「合理的経済学派」を生み出し現在も存在する。
- ノーベル経済学賞を受賞したスタンフォード大学のポール・ロマーは「彼らは強い仲間意識をもって画一的な学会に閉じ籠り、他の専門家の見方にはまったく目を向けない。経済学を数学で表すことが進歩だと信じており、過去の歴史には無関心。彼らの経済学派むしろ退歩している」と述べた。
- フランスの経済学者トマ・ピケティは「経済学派数学や思想的偏向を伴った憶測と言った子供っぽい情熱を克服できていない。数学への偏執狂ぶりは経済学を科学っぽく見せるにはお手軽だが、我々の社会のはるかに複雑な問題には答えることが出来ない」と言う。
- 新古典派の流れを汲むマネタリストのミルトン・フリードマンは批判への反論として「経済理論の信憑性は将来を予言できるか否かで判断すべきだ」と言った。
カール・メンガー
- 1840年~1921年、オーストリアの経済学者
- 限界効用の提唱者の一人。ウィーン学派の祖。他の新古典派と異なり数学的手法をあまり用いなかった。
- 限界効用逓減の法則:財の購入において、財を追加するごとにその価値は減少し、優先度の低い用途に財をあてるようになる。その最後の用途の満足度を財の価値(限界効用)とみなす。経済学における主観的価値を重視した見方。
ウィリアム・スタンリー・ジェヴォンズ
- 1835年~1882年、イギリスの経済学者・数学者
- メンガー、ワルラスと同時期に限界効用理論を提出し、経済に数理的手法を持ち込んだ。数理経済学にも貢献し、1870年に発明した論理ピアノはコンピュータの前身ともいわれる。
- 正・負の効用:経済学を「快楽・苦痛の微積分」と呼び、快楽(効用)を消費量と関係づけて計算、さらに負の効用の概念を提出した。
- ジェヴォンズのパラドックス:技術向上で資源の利用効率が上がると、逆に資源消費量が増える。
アルフレッド・マーシャル
- 1842年~1924年、イギリスの経済学者
- ケンブリッジ学派の創始者、限界効用説に重要な貢献をし、イギリスの新古典派経済学を体系化した。教え子にケインズがいる。
- 著書「経済学原理」
- 需給均衡:完全競争市場では、価格は需要と供給によって自然に決まる。需要曲線と供給曲線が交わる点が均衡。この需給均衡を示す図は「マーシャルのはさみ」と呼ばれる。
- 通貨流通量:貨幣政策では通貨流通量(マネーサプライ)は国民所得との比率(マーシャルのk)を見て判断すべき
クヌート・ヴィクセル
- 1851年~1926年、スウェーデンの経済学者
- スウェーデン学派の創始者。功利主義かつマルサス主義の急進思想家でもあり、キリスト教批判で投獄されたことも。広範な領域を研究しマクロ経済学とミクロ経済学のいずれにも貢献した。
- 累積過程:自然利子率(収益率)が貸付利子率を上回ると投資家は投資額を増やし、物価上昇を招く。逆に貸付利子率が高いと物価は下降する。いずれも次第にエスカレートする傾向がある。
アーヴィング・フィッシャー
- 1867年~1947年、アメリカの経済学者・数学者
- 計量経済学の先駆者で、数学的手法を重視。通貨の役割を強調するマネタリストでもある。
- フィッシャーの交換方程式:一定期間における取引総額は、貨幣の総和に等しい。(貨幣流通量×流通速度=物価水準×財貨の取引総量)
- 負債デフレ:デフレーションは実質的な負債を増大させ、企業に資産売却を促すが、それにより資産価値がさらに低下、加速度的に恐慌にに至る。それを避けるには通貨供給量を急増させるべき。
ポール・サミュエルソン
- 1915年~2009年、アメリカの経済学者
- 経済学の数学的分析を重視、マクロ経済学とミクロ経済学の融合を図った。1970年ノーベル賞受賞。著書「経済学」は教科書として世界中に普及した。
- 古典派総合:不況時にはケインズ理論に基づいて経済に介入して完全雇用を目指すべきだが、完全雇用の達成後には民間の自由な経済活動に任せねばならない。
フリードリッヒ・ハイエク
- 日本ではハイエクは「ケインズと並んで20世紀を代表する2大経済学者」と呼ばれる
- 1899年、オーストリアに生まれた。裕福な家系の子であったことが彼の人生の前半をかなり自由にした。後半は貧困に陥ってほぼ活動を休止したが、ノーベル経済学賞の賞金で復活したという経緯を持っている。
- ハイエクの経済学派「オーストリア学派」から出発した。この古い学派は「自由放任」を受け継いではいたが、中身がテクニカルで経済思想とは言い難い。彼らは「限界効用」「需要供給の法則」「為替レートの操作」「経済価値」などの概念を考え出し、経済学者間で議論を続けた。この学派は他の学派へ絶えず論争を仕掛けた。それが彼らの得意技だった。
- ハイエクは師匠のルートヴィッヒ・フォン・ミーゼスとともに「大きな政府、つまり公的支出を増やして福祉などを強化しようとする社会主義的な政府は、経済政策への過剰介入によって必ず経済停滞を引き起こす」と主張した。ハイエクは「市場経済に干渉する政府は、その目的を果たすよりはむしろ経済の悪化を引き起こす」と言った。そして「失敗に終わった干渉を別の干渉で取り繕おうとして市場経済をさらに墓石、最後は必ず、社会主義に行きつく」とまで断言した。
- ケインズとの終生の論争
- 1929年ごろ、ロンドンで両者が初めて会ったとき、ケインズもハイエクも互いに紳士的に振舞った。だがその後、ハイエクはケインズを徹底的に批判し攻撃するようになる。
- 当初彼らの論争は「景気循環」巡るものだった。ハイエクの言い分は「金利(利子率)が低いと過剰な投資が生じて経済はバブル化し、やがて生産財(製品やサービスを生産するために企業が購入する原材料や設備など)が不足して、バブルが崩壊する」と言うものだった。この見方は古典派自由主義から生じたもので、「個人の自由」と「小さな政府」を優先するところをアダム・スミスの自由放任に学んでいる。これはその後、「伝統的自由主義」「リベラリズム」「リバタリアニズム」などと呼ばれることになる思想と同類。ケインズとは相いれないものだった。
- 論争はケインズが先に死んだからで、ハイエクはその後半世紀近くも生きた。
- ハイエクの見方の根柢には人間の知識は不完全だという認識があった。そうした立場からは個人の自由を尊重する「自由市場資本主義」が生じ、その帰結として社会主義を強く拒絶することになる。
- ハイエクが第二次世界大戦中にアメリカで発表した、著書「The Road to Serfdom(邦訳:隷属への路)」はアメリカでベストセラーとなった。そこでも彼は「社会主義も共産主義もナチズムも独裁国家のファシズムもみな同質だ」と批判した。これらはみな経済活動を集約化、計画化、統制化しており、彼の言葉では「集産主義(Collectivism)」にたどり着く。この新語はドイツ語から英語に、そして日本語に訳された。(集産主義はジョージ・オーウェルの未来小説「1984年」のテーマとなった。
- ハイエクは「知識階級は社会主義に感心を示しがちだが、それらは必ず最悪の独裁政治へと変質する」と断言する。
- 1979年に発表した「The Political Order of a Free People(自由人の政治的秩序)」
- ハイエクは結婚と離婚を繰り返し、その際のトラブルのためにアメリカ社会で忌避(きひ)された時期もあった。
- ハイエクはケインズ経済学を徹底批判し、マルクス的社会主義を完全拒否し、さまざまなミクロ経済学の用語や概念を生み出した古典的自由主義者(リバタリアン)として記憶されている。
- ハイエクは1974年にノーベル経済学賞を贈られたが、授賞理由は「金融緩和の危険性を警告し、通貨危機が訪れると予言したこと」だった。
- 2005年に93歳で生涯を閉じた。晩年に残した21世紀の予言は「西欧や日本は衰退し、ロシアは消滅、中国とインドを中心とする世界が出現する」というものだった。
解釈
ハイエクの思想は経済学の根拠のなさを露呈するには十分だったと考えられるが、一方でケインズはハイエクの気持ちを理解していたようにも思う。それはケインズが先に死んでいる点と、ケインズが経済学などという無意味な理論に民衆が皆賛同することになっていることを確かめるために活動させられていたためで、実際はハイエクと同意見だったように思う。
この点、ハイエクの方が経済の無意味さを理解して、自らもそれに呑まれている証言者だと言えそうである。ここで一番の議題に上がるのは、例えば氏族にとって経済がその愛をもって、または家をもって、民衆の暮らしをよいものに維持できるかという点であるが、これが可能であれば、この理論すらも愛の一部ととらえる必要がある。無論、ハイエクとケインズの論争は、実際は「王権と国家」とのような、すなわち部族王による支配か、国王の愛による営みかという問題を含んでいる点で優れている。さらにはイギリスの産業革命における本来の意味が十分問われ、理解される必要があるのは世界史的に必須であるが、この影響が実際の真実を隠蔽している。
語彙
| 語彙 | 説明 |
| 価値理論 | 何が個人にとっての価値かを論ずること。 |
| 限界効用 | ある人やある製品の社会的価値のこと。その価値が最小どれほどかを表す。 |
| 限界価値 | ある経済行動に対して収益がどれほどに高まるによって |
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シュンペーター理論
ヨーゼフ・シュンペーター
生い立ち
- 日本の経済学徒の間ではシュンペーターは大変有名で、20世紀前半を代表する大経済学者の一人とされている。
- オーストリア=ハンガリー帝国が倒れかけた1883年(日本では明治16年)、現在のチェコで工業経営者を父として生まれた。ウィーン大学で法律と経済学を学び、弁護士としたり、地方大学で教鞭をとった後、ニューヨークのコロンビア大学客員教授などを務めながら経済学者として名を挙げて行った。
- 20代半ばのシュンペーターは最初の著書『経済発展の理論』を書いた。そこで近年日本でもビジネス用語として使われることのあるアントプレナー(企業家)という概念を発明した。彼は起業家の大胆な精神が様々なノイエ・コンビナシオン(ドイツ語で新しい組み合わせ、つまり「新結合」を意味する英語ではイノベーション、日本語で技術革新)を生み出し、これが資本主義の経済成長の原動力だと言った。彼のいう企業家は、新しい製品や生産技術を開発し、新しい市場や威厳を開拓し、新しい組織を作ったりする人間を指している。古いものが壊されて新しいアイディアが実現することで進歩が起こるこれをシュンペーターは「破壊的創造」と呼び、これが彼の経済発展理論の核でありキャッチフレーズとなった。
- オーストリア政界で大蔵大臣となり、社会主義勢力と対立して解任
- 銀行の頭取となったが3年後に倒産。巨額の借金を背負う羽目になった。
- ボン大学で教職を見つけ、学問の世界に戻って来た
- 1932年(7年後)、ボストン近郊のハーバード大学で経済学教授のポストが開いたため、世界恐慌さなかのアメリカに渡った。(そこにはレオンチェフ、ガルブレイス、シュンペーターが教えた、サミュエルソン、トービン、日本人も数人いて、都留重人(つるしげと)は後に一橋大学教授となった。
- こうしてハーバードの経済学者となることでシュンペーターは国際的な名声を手にし、1950年に死ぬまでそこに留まって、多数の著作を残した。
理論
- 資本主義の成長の原動力は「起業家精神」だと主張し、この原理に立って「進化する社会」を予言した。それによると、資本主義社会はこの原理によって成功するが、それは、「成功するがゆえに崩壊に向かう」という。日本人が好みそうな目くらまし的な逆説論理。資本主義が成長し続ければ、起業家たちの新結合が進んでそれが自動化し、もはや起業家精神がなくても新結合が起こり続けるようになる。これは資本主義社会の発展を支え続けて来た「企業家階級」が消滅しそれによって資本主義社会を崩壊させるプロセスである。こうして崩壊する資本主義社会からは「その明らかな後継者である社会主義に向かう必然的条件が生み出される」
- マルクスの場合:資本主義は内部矛盾があり、ある社会発展段階に達すると生産諸力と生産諸関係の均衡が崩れ、両者が衝突するため、それらが顕在化したときに社会主義革命が起きると推測した。(プロレタリアートによる暴力的なロシア革命はその典型)
- シュンペーターの場合:資本主義は矛盾を内在させてはおらず、優れた成長力が最終的に自己崩壊を起こして社会主義化するとし、資本主義は資本主義を受け継ぐ者たちによって崩壊するという。そして、資本主義はその社会システムが生み出す「超富裕階級」を批判、攻撃することを飯のタネとする知識階級を排出し、結果的に内部崩壊して社会主義化する。(確かに戦後日本では現在に至るまで体制批判を飯のタネにしている評論家やメディアが少なくない。)
- シュンペーターはワルラスの一般均衡理論を批判し、マルクスの経済収縮説を拒絶し、ケインズの停滞理論(資本主義には長い停滞が起こり得る)をはねつけた。
- 日本的事情は、シュンペーターが母国で失業して苦境にあったとき、東京帝国大学の自由主義者河合栄次郎が彼を日本に招きたいと言ったが、辞退された。こうした経過が日本にファンが増えた。
- 偏見なく言うとシュンペーターの世界的な評価は「優れた経済史家」
ジェームズ・トービン
- 1918年~2002年、アメリカの経済学者
- ケインズが右派の論客として、マネタリストと激しい議論を交わした。資産運用について不確実性を含めて論じた理論や、金融市場における投資家の動向を論じた理論(トービンのq理論)が有名。ノーベル経済学賞受賞
都留重人
- 1930年反戦活動で治安維持法に触れて高校を除籍された。日本での進学をあきらめてアメリカに渡った。日米開戦によって帰国し、戦後はGHQの経済顧問などを務め、片山内閣で日本初の経済白書の作成にもあたった。都市問題や環境問題にも取り組んだ。
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経済成長理論
マクロ経済学の一分野。数多くのノーベル賞受賞者が出ている。
ノーベル賞受賞者(1970年代以降)
- チャリング・クープマンス:オランダ出身
- ロバート・ソロー:より新しい成長理論「ソローモデル」
- ロバート・ルーカス・ジュニア:
GDP(国内総生産)
- GDPが去年より増加すると「経済成長率がプラスになった」という。GDPとは、その年に新たに生み出されたすべての付加価値(売上高から原材料費などを引いたもの)の合計のこと。
- 経済成長が起こるための条件
- その国の資源(天然資源+資本+人口)が増大する
- これらの資源の質が向上する
- 技術の進歩によって生産性が高まる
- 上記の条件が実現することで生じた経済成長率が人口増加率を上回ると国民1人当たりGDPが増大し、「国民の生活水準が向上した」ということになる。
ハロッド=ドーマーの成長理論
- この理論名は、イギリスのロイ・ハロッド、アメリカのイヴシー・ドーマーに由来する。彼らはいずれも、ケインズ経済学の「資本主義経済は不安定であり長期停滞に陥る」という悲観的予言を打ち破り、「投資によって”持続的な経済成長”が可能になること」を示そうとした。そこで、この理論は別に「ケインズ=ドーマーの成長理論」と呼ばれることもある。
- 経済成長を牽引するには高い貯蓄率が必要で、投資に回り、それによって企業の財が増えるという好循環が生じるというもの
- 経済の持続的成長に必要な2つの要因
- 国民の「貯蓄率(GDP比)」:あまり一般性がない。「貯蓄性向の高い国民(日本人やドイツ人)」「途上国の国民」「貯蓄嫌いの国民(アメリカ人やイギリス人)」を同一に扱えない
- 「投資の効果(資本係数)」:一単位の産出量の増加をもたらすのに必要な追加の資本量。資本係数は少ないほどよいということになる。
- 貯蓄率÷投資効果 が大きいほど経済成長率が高くなると結論。
- 1960年代の日本の首相池田勇人はこの経済成長理論を採用して「所得倍増計画」を実行し、日本人の所得が倍増したという歴史的事実がある。
ロバート・ソロー
- ポール・サミュエルソンと並んで戦後経済学の二人の巨人とされる。
- ハロッド、ドーマーとは異なり、経済は「自律調整力」を持つという、古典派的な前提から出発する。
- 人間の生活水準を高めるのは経済の量ではなく、技術の進歩だとしている。彼は経済成長を生み出すいくつかの要素のそれぞれの貢献度をはじき出す計算式を考え出し、それを使って、労働力と資本の増加よりも新技術の方が成長への貢献度が高い(50%以上)ことを立証して見せた。この新しい見方によって1987年ノーベル賞を受賞した。
ハロッド=ドーマーとソローの違い
- ハロッド=ドーマーの場合:概念的かつ定義的。教科書的にわかりやすく記述しやすい
-
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シカゴ学派(マネタリズム)
- 20世紀以降の各国の経済運営に重大な影響を与えた2つの明快な理論として、ケインズ経済学、マネタリズム(Monetarism)
- マネタリズムは日本ではそのままカタカナ表記か、まれに「通貨主義」「新貨幣数量説」などと記される
- 現在の世界の通貨体制が「変動相場制」であるのもマネタリストの業績、遺産である。
- マネタリズムはシカゴ学派とも呼ばれる。シカゴ大学の経済学者たちが最初に提起したため。
- ケインズの功績を執拗に批判し始めたシカゴ学派(反ケインズ学派)が、古典派経済学に新たな息を吹き込んで20世紀に復活させようとしたもの
- マネタリストとはフリードマンの影響の強い経済学者を指している。
- マネタリズムは反ケインズ学派を指している
- マネタリストは、中央銀行が行う、通貨供給政策の方が政府が行う財政政策より効果的だと主張する。※これは政府が財政政策を行うと、その特色や意向が人々を汚染してしまうからである。これは王権に関する問題である。
- 別の言い方をするならば、「社会に流通する通貨の総量は経済活動の大きさに合わせて伸びたり縮んだりする。そして経済活動の中でやり取りされる商品やサービスに対して通貨供給量が大きすぎるとインフレーションが起こり、その逆になるとデフレーションが発生する」
- マネタリストは「通貨の流通速度は一定」という前提に立っている。通貨の速度とは通貨が人から人、企業から企業へ動く速さのことだ。(例えば、月給で受け取る人よりも日給で受け取る人の方が所得を日々に分散して使うので、金は速く社会を回る。従って、通貨が速く流通する社会では、遅い社会よりも全体の通貨流通量は少なくて済む。逆に貯金をする社会では、消費されずに死蔵される通貨が溜まる一方なので、通貨流通量を多くしないと経済は動かない。
- 1960年代までの先進諸国はほとんど常識化したケインズ経済学のもとで、公共支出を増やす”大きな政府”と過剰な通貨供給を続けて、経済成長と福祉社会を追い求めて来た。しかし、世界中にインフレ不況が蔓延すると、一転してケインズ的政策は破綻したとみなされ、ケインズ学派は否定されたが、それでも景気回復は見られなかった。そこでマネタリズムが出番となった。
- マネーサプライ(通貨供給量)の見方
- M1:いつでも使用できる(もっとも流動性が高い)通貨で、①現金、②すぐに引き出せる預金③すぐに現金化できる小切手・手形。基本的に企業(金融機関以外)、個人、地方公共団体が保有する残高であり、金融機関や日本銀行が保有通貨は含まれない。
- M2(M2+CD):M1に、短期の定期性預金や外貨預金などの準通貨を加えたもの。M2にさらにCD(譲渡性預金を加えたものはM2+CD
- M3(M3+CD):M2(M2+CD)に郵便貯金、特定の金融機関(信用組合や農協など)の預貯金などを加えたもの。
- 広義流動性(Mn?):上記にm、投資信託、金融債、国債、FB(政府短期証券)、外債などを加えたもの
- マネーサプライとは金融機関から社会全体に供給されている通貨(金融商品を含む)の総量。通貨がどの程度の流動性を持つかによっていくつかの階層(種類)に分けられる。階層の定義は国によって多少異なる。上記は日本銀行の分類
※日銀は2008年にマネーサプライの名称を海外で一般に使われているマネーストックに変更。
- フリードマンが世界的名声を得ると、各国の経済政策を依頼されるようになると、それぞれに自分の弟子筋の経済学者や学生を送り込んだ。ひどいインフレに悩まされている国は、マネタリズムが何かを知らなくてもフリードマン一派に救済を求めた。
- マネタリストの失敗:1970年代後半から南米チリで行われたマネタリストの国家的実験があった。この時ピノチェト将軍の軍事独裁政権下で崩壊状態にあったチリ経済はフリードマンとその弟子たちによるマネタリズム実験場となり、一時は「チリの奇跡」と呼ばれるまでの回復を見せた。それはピノチェトの前のアジェンデ政権が行って失敗した社会主義的政策を一変させ、すべてを民営化した効果のように見られた。だが実験成功と見えたのはわずか数年で、チリ経済が再び低迷すると、ピノチェト将軍はフリードマンの弟子たちに引導を渡した。フリードマンが理想とした規制のない自由主義経済は現場では機能しなかった。
- アメリカのカーター政権やレーガン政権、イギリスのマーガレット・サッチャー政権、イスラエルのリクード政権などはマネタリストに特別な敬意を払った。
- 現在21世紀ではマネタリズムは以前ほどの影響力を持っていないとみられる。理由は主に経済用語でいう「流動性」、つまりさまざまな資産の通貨への交換のしやすさが複雑化したためだという。
- 近年は修正されたマネタリズム、「新マネタリズム」「拡大マネタリズム」が研究されている。
- マネタリストを嫌う人は彼らを「シカゴギャング」と呼び、一方フリードマンやその弟子たちは自らを「シカゴボーイズ」と称した。
- ケインズは経済学に人間の社会心理を持ってきたが、マネタリストは数学的手法を持ち込み、人間社会の経験にはほとんど関心を示さない。つまり数学に心はないという
ミルトン・フリードマン
- 大戦終戦から3年後の1948年(昭和23年)にはシカゴ大学に。身長152cmの小柄な男
- 貧しいハンガリー移民の子
- アメリカ経済学会会長、1976年にはノーベル経済学賞受賞
- ケインズもフリードマンも源流をたどれば古典派アダムスミスのレッセフェール。
- 経済を動かす最大の要因はマネーであり、マネーサプライ(通貨供給量、マネーストック)だと主張。
- フリードマンの基本思想は「政府は通貨供給量(=マネーサプライ)の操作によって経済の安定を図ることが出来る」とするもの。つまり、通貨供給量および利子率で景気循環をコントロールできるという。
- フリードマンのマネタリズムは典型的なマクロ経済学
- フリードマンはある社会の流通速度は長い目で見れば非常に安定していると考えた。この前提に立つと、社会に流通する通貨の量を調整すれば、それに比例して個人の間を通る名目所得も増えたり減ったりする。換言すると「名目所得を決めるのは通貨の流通量だけ」
- フリードマンはケインズが主張した公共支出(公共投資)や課税などの財政政策は、これほどの重要性を持つ通貨政策(通貨の流通量を変えること)を伴わないのであれば無意味だと批判し続けた。
- フリードマンによれば1930年代の世界不況の原因はケインズの分析とは真逆で、当時のアメリカ政府が過度のデフレ政策によって通貨供給量を激減させたためだという。
- ケインズ学派は「マネタリズムは古典派経済学に古くからいわれる『貨幣数量説』(貨幣や通貨の量が2倍になれば物価も2倍になる)という説を引っ張り出して今風に焼き直したに過ぎない」と批判した。これに対してフリードマンは「私の理論の枠組みはそれとは違う」と激しく反論した
- ケインズ学派とマネタリスト(フリードマン)の争点はいつも①市場が安定的かどうか、②通貨の役割が大きいか否か、に終始した。
- 2006年、94歳で逝去(せいきょ)
ポール・ボルカー
- 1970年代末のカーター政権と80年代のレーガン政権の時代にアメリカの中央銀行(FRB:連邦準備制度理事会)の議長を務めた。
- 身長が高く2mもある。シカゴ大学の出身ではないが、フリードマンの弟子筋のマネタリスト
- ボルカーショック:通貨供給量を固定化したマネタリスト的政策で、アメリカ経済にかえって不況をもたらした。
- ボルカーショックから政策を2年後に破棄し、金融緩和に転じたことで経済は回復した。(マネタリストはもともと通貨供給を増やせば経済を押し広げて失業を減らせるが、長くやりすぎるとインフレを引き起こすとも言っていた。)
- オバマ大統領は高齢となっていたボルカーに大統領経済諮問委員会の委員長就任を求め、2020年にはオバマの造語による「ボルカールール」という銀行規制法を制定した。
- 日本政府は1988年、ボルガーに勲一等瑞宝章を送った。
ゲーリー・ベッカー
- 1992年にノーベル賞を受賞。
- マネタリストの影響を受けている経済学者
- 経済学を政治科学や社会生物学と融合させ、経済は独立現象としては見ていない
- 大統領自由勲章を贈られた。
- フリードマンの申し子と言うわけではなく柔軟で独自の思想を披歴(ひれき)している。
ロバート・ルーカス・ジュニア
- 1995年にノーベル賞を受賞。
- フリードマンの申し子と言うわけではなく柔軟で独自の思想を披歴(ひれき)している。
スタグフレーション
- スタグフレーション:スタグネーション(経済停滞)とインフレーション(物価高騰)の合成語。
- 第二次世界大戦後の1945年以降、アメリカでは好景気が続いた。
- 好景気と同時にアメリカを中心とする西側世界とソビエト連邦(ソ連)を中心とする東側世界は、大量の核兵器(ICBM:大陸間弾道弾)を相手側に向けて対立を先鋭化させた。(東西対立、米ソ対立)
- 「キューバ危機(1962年)」によって世界は人類滅亡の一歩手前まで追い詰められた。
- 1960年は同時に人類の宇宙時代の幕開けでもあった。NASAがアポロ計画によって人類を月面へ着陸させたのもこの時代。
- アメリカの市民は新しく華やかな物質文化を謳歌していたが、現実の経済はスタグフレーション(高い失業率と高いインフレの同時進行)に侵され始めていた。急速な発展途上国の日本もスタグフレーションに襲われた。
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数理経済学
- 経済学の分析に数学を使う。この手法をよく用いる経済学者は数学を用いれば経済現象をより一般化し、単純かつ厳密に扱うことが出来るという。また、多くの経済学者がこの手法を用いている。
- 代表的な経済学者が登場した19世紀は初めから人間の経済行動(生産や消費にかかわる行動)を表すために代数や微積分が使われていた。
- サミュエルソンは「経済学派1935年には数学時代に突入していた」「経済理論の創始者達のような天才ではない”ラクダ”でも、数学を使えば時には針の穴を通り抜けられる」と語った
- ソローは「数理経済学の経済学全体への貢献は限られている」と言った。
- 反論として、ケインズやハイエクは「人間の行動を数式を使って単純化したり法則化したりすることなどできない」と冷たく突き飛ばした
スタンリー・ジェヴォンズ
- イギリス人
- 「経済学を科学的に扱うには数学は不可欠だ。経済学は”量”を扱うからだ」と主張した
ワシリー・レオンチェフ
- ソ連出身のアメリカの数理経済学者
- 計量経済学と呼ばれる研究。
- 「レオンチェフ表」:一種の産業連関表。別名「投入産出表」と呼ばれるマトリックスで、楯と横に同一の産業分野が並ぶ。この表から物やサービスの流れが簡潔に把握できるという。(重農主義のフランソワ・ケネーの経済表の現代版)ワルラスの一般均衡理論の肝心な部分を表にしたものでその後どんどん複雑になった。(現在では経済を400~500の産業分野に分けて、縦横列ともに膨大になっている)。
- 計量経済学:数学を用いる経済学の典型。方程式やグラフやマトリックスで経済モデルを作る。そして、現実の経済からデータを集めてこれに当てはめる。データには通貨供給量、通貨流通速度、労働生産性などの変数が含まれる。これらの変数を変えると統計が変化するので、そこから経済の分析や予測を行う。
- レオンチェフ表の業績で1973年にノーベル賞を受賞している。
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ゲーム理論
ジョン・フォン・ノイマン
- ゲーム理論を経済学のツールとして考え出した。
- 数学、物理、計算機学、気象学、心理学などあらゆる分野の一流の専門家であり、開拓者。20世紀最大の数学者、20世紀最大の科学における最重要人物と形容される
- 業績としてもっともよく知られているのは、現在のコンピュータ原理(プログラム式)をたった2週間で考え出したこと(アラン・チューリングの名も記さなければならない)。「フォン・ノイマン型コンピュータ(ノイマンマシーン)」
- さらには、「原爆と水爆の構造設計」「人工知能の原理」「DNAの自己増殖のしくみ」など現在の技術文明の起源となる数々のアイディアの発明、発見をした。
- 1940年代にアメリカの原爆開発計画(マンハッタン計画)に加わり、数学者として原爆構造設計を行った。さらに1945年8月の原爆投下に先立って日本の各都市を調べ、17都市を投下候補地として選んだ。
- 1903年、ブダペストでユダヤ系の両親から生まれた。誕生時の名前はナイマン・ヤーノシュ、その後ヨハン・フォン・ノイマン。貴族の称号であるフォンは父親が金で買った。(ドイツ人はこうした方法でフォンを自称するものがいまでも少なくない)
- ハンガリーからドイツに移り、アメリカに渡り、1933年からブリンストン高等研究所の教授となった。(そこではアインシュタインら他の3人もいた)
- 1944年、オーストリア出身の経済学者オスカー・モルゲンシュテルンと共著で『ゲーム理論と経済行動「Theory fo Games and Economic Behavior」』原書は700ページ近くの小さな文字が埋め尽くし、640以上の数式が後に行くほどぎっしりと並んでいる。(経済現象の見方を謳っているが、当時の軍事戦略家たちによってその重要性が理解された)。ノイマンは1928年からこの数学的ゲーム理論を発展させてきた。
- ゲーム理論の序文「著者の主たる目的は、利害が一致または相反したり、情報が完全または不完全であったり、自由で合理的な決定や偶然がかかわってくる経済学的、社会学的な問題には、厳密なアプローチの仕方があることを示すことである」、つまり彼は、物理学のような単純な現象と違ってきわめて複雑な様相を示す実社会も、数学的手法によって理解できるということ。
- 余談:近代の戦争で戦争ゲームが勝敗を決定した最後の事例は日露戦争における日本の勝利だったとされている。
- 1928年、数学的に証明した「ミニマックスの定理」は今ではよく知られている「ゼロサムゲーム」と呼ばれる状況では、一方にとって最悪の中で取り得る最善の手が、他の方にとっても同様に最悪の中で取り得る最善の手となったとき、どちらにとってもそれ以上の手はないことを意味する(ゼロサム=全員の利益の合計はゼロ)。ミニマックスの定理は第二次世界大戦後のアメリカとソ連の核戦略「恐怖の均衡」のシナリオとなった。(「恐怖の均衡」は一方が核ミサイルを発射して潜性攻撃を行うと直ちに相手側も核ミサイルで反撃し、両者が相打ちとなるような対決構造を維持すれば、双方の恐怖がバランスして核戦争の勃発を抑止できるというもの。「核抑止力」もここから生まれた。このシナリオはソ連が崩壊した1980年代末まで人類の命運を握っていた。
- ゲーム理論第一章「戦略ゲーム理論は経済行動の理論を開発する適切な道具となる。ここで読者は我々の糸を誤解し、単にこれら2つの理論には類似点があると指摘していると考えるかもしれない。だが著者らがここで確立しようとしているのは、経済行動における典型的な問題は、戦略ゲームを数学的に記述した場合とまtったく同一だということである。」「現時点では普遍的な経済理論はどこにも存在せず、そのようなものが誕生するとしても、それはわれわれの生きているうちではないだろう」
- ゲーム理論の厳密な前提:このゲームに登場するのは、互いに利害が対立し、かつ合理的、理性的に振舞う人々(集団)であるということ
- ゲーム理論は「相互依存関係が存在する状況での合理的行動の研究」
- 相互依存関係:ゲーム理論に登場するプレーヤーの行動が常に相手側の行動に影響され、相手側もまたこちらの行動に影響される関係
- 合理的行動:ゲーム理論には直感的とか道義的、感情的な判断は一切含まれていないということ。(各プレーヤーは自分が得られるものを最大にするために理性的に最善を尽くす
- ゲーム理論の扱うゲームは「ゼロサムゲーム」「協力ゲームy」「非協力ゲーム」などに分類される
- ゲーム理論の応用を論じたカリフォルニア大学の経済学者ジョン・マクミランは「経験は木の見方を教えるが、ゲーム理論は森の見方を教える」と述べた。
- ロンドン大学の経済学者ケン・ビンモアは「Fun and Games」と題するゲーム理論解説書の中で「経済学者の多くはフォン・ノイマンらが与えてくれたこのツールを知らない。そのためかれっらは、非常に単純なモノポリー(市場独占)と完全競争という2つの原理は理解しているが、これら両極の中間にあるあらゆる不完全競争は分析できない」
ジョン・ナッシュ
- ジョン・フォン・ノイマンに続くゲーム理論の有力な開拓者。MIT(マサチューセッツ工科大学)
- こちら側が相手側と協力しない「非協力ゲーム」の研究で知られる。
- 「ナッシュ均衡」:互いにまったく協力しようとしない者同士の間でも、最終的に均衡状態、すなわち双方が満足する結果を手にすることがありうるというもの。
- 堅実な人間と適当な人間がいるのはなぜかという問題もナッシュの非協力ゲームを使えばその理由がうまく解釈できるという。
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経済学の最新トピック
MMT
- 日本語では「現代貨幣理論」と呼ばれる。MMT:Modern Monetary Theoryの略、アメリカで数年前から頻繁に話題になってきた。
- MMTは経済の沈滞した国が新たな雇用を生み出すために経済の活性化政策(大規模な公共投資のような)を実行しようとすれば巨額の財源が必要になる。その場合、政府は必要なだけの通貨供給を行ってもよい(=政府が必要と考えるだけのマネー流通量を増やしてもよい)。それによって国家財政が破綻する心配はない。
- ニューヨーク州立大学教授ステファニー・ケルトンがMMT理論の主唱者であり解説者としてももっとも有名
- ケルトンはMMTは資本主義国の経済の仕組みを非常にわかりやすく理解する手法だという。
- ケルトン「その国が自国通貨を自ら管理しており、将来の支払請求書(歳出計画)を把握しているなら、その請求補に対していつでも支払することが出来る」という。そのような国は決して財政破綻(債務不履行、デフォルト)しないし倒産も迫られない。国家財政は家庭の台所事情とはまったく違うものだから
- MMTに対しては、国の経済運営、財政運営の最高責任者たちが口を揃えて距離を置く反応を示している。アメリカの中央銀行(FRB)も日本銀行のトップや財務大臣も、「それはあんまり感心しない」「いいとは思わない」と言ったコメントだけだった。
- 日本は世界最有力のMMT適正国
トマ・ピケティ
- フランス人経済学者
- 2013年に出版した経済学書が超ベストセラーになった。日本では「21世紀の資本」と題して翻訳され、ベストセラーとなった。
- ピケティの議論の焦点は現在の資本主義国に広がっている不平等と社会的格差。社会的=一人当たりの所得(賃金)の格差、それと保有する富の格差。
- 議論の際立った特徴:過去100年ほどの欧米の経済データを山のごとくかき集め、それを用いて経済の不平等、つまり裕福な人々とそうでない人々の所得や富の格差がどれほど急拡大してきたかを調べ上げるというもの。つまりその国の人口のうちもっとも富裕な方から数えて1%の人々の合計所得が国民全体の所得の何%を占めているかで格差の程度を測るというもの。
- 「資本の利益率は経済成長率をたいていは上回る」つまり富を所有するものは賃金労働者よりもより早く豊かさを増していくという。これに対してピケティは戦争や自然災害で社会が崩壊し富が破壊されるのでなければ、富裕層へ課税すべきであるとする。
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